線香の香りの向こうにある、祖先と私たちのつながり

おはようございます。

今日は、自分と祖先との関係、そして、これからの先祖供養について考えてみたいと思います。

私は田舎で育ちました。幼い頃から、お盆や法事になると親戚が集まっていました。

お坊さんが来られ、線香の香りが漂い、お経の音色が聞こえる。その中で、お爺さんやお婆さんの写真を眺めていたことを覚えています。

子どもですから、お経の意味が分かっていたわけではありません。大人たちがなぜ手を合わせるのか、その時間にどんな思いを込めているのかも、十分には理解していなかったと思います。

それでも、その場の空気は心に残っています。

言葉で教わった内容よりも、香りや音、写真を見上げたときの感覚の方が、長く残ることがあるのですね。今になって振り返ると、あの時間の中で私は、自分が生まれる前にも家族の暮らしがあり、その続きに自分がいるということに、少しずつ触れていたのかもしれません。

子どもの頃は、自分を中心に世の中が回っているように感じるものです。朝になればご飯があり、帰れば家があり、大人たちが生活を支えてくれる。それが、初めから用意されていたもののように思えてしまう。

しかし、自分が年齢を重ね、仕事をし、家族や会社のことを考える立場になると、暮らしを続けていくことの大変さが分かってきます。

お金の心配もあったでしょう。仕事がうまくいかない日も、家族のことで悩む日もあったでしょう。祖先の一人ひとりにも、私たちと同じように迷いや喜びがあり、簡単には人に話せない苦労があったのだと思います。

写真の中では静かに座っている人にも、その人なりの人生があった。そのことを想像するようになると、写真の見え方も変わってきます。

どんな声で笑ったのか。どんな食べ物が好きだったのか。若い頃は何をしたかったのか。どんな思いで家族を見ていたのか。

名前や生まれた年だけでは分からない、その人らしさがあります。今なら聞いてみたいことが、いくつも浮かびます。

祖先を思うというのは、遠い昔の立派な人を仰ぎ見ることばかりではないのでしょう。自分と同じように一日一日を生きていた人の存在を、身近に感じることでもあるのだと思います。

そして、その人たちがつないできた時間の先に、今の自分がいます。

自分の努力で歩いてきたつもりでも、自分だけで用意したものは、思っているほど多くありません。生まれ育った場所、教わった言葉、食卓の習慣、人への接し方。意識せずに受け継いでいるものが、暮らしの中にはあります。

もちろん、受け継いだものを何でもそのまま守ればよいとも思いません。時代に合わなくなった考え方や、次の世代に背負わせたくない苦労もあるでしょう。

感謝しながら、変えるべきところは変えていく。自分たちの代で少しでも暮らしやすくして、次へ渡す。そういう向き合い方も、祖先との大切な関係なのではないでしょうか。

お盆や法事に親戚が集まることにも、年齢を重ねて感じる意味があります。

亡くなった人を思うために集まりながら、今を生きている人同士が顔を合わせる。「元気にしているか」「仕事はどうか」「子どもは大きくなったな」。そんな会話をする時間にもなります。

子どもには、大人たちの関係がよく分からないこともあります。それでも、親が誰かにとっての子どもであり、兄弟であり、甥や姪でもあると知る。普段の家の中とは違う家族の姿を見る機会になります。

自分には、日頃一緒に暮らしている家族の外にも、つながりがある。その感覚を、私はあの集まりから受け取っていたのかもしれません。

ただ、これからも同じ形で集まり続けられるとは限りません。

遠くで暮らす家族もいる。仕事や介護の都合で移動が難しい人もいる。集まりを準備する側にも、体力や費用の負担があります。大切な行事だからこそ、誰か一人の無理によって支える形にはしたくないと思います。

「昔からそうしてきた」という思いも分かります。一方で、続けてほしいと願うなら、次の世代がどのように受け止めているかを聞くことも必要でしょう。

守りたい気持ちを伝えたうえで、できる方法を一緒に考える。その話し合い自体が、家族のつながりを確かめる時間になるはずです。

私は、先祖供養の形には、それぞれの家族の事情や信仰があってよいと思います。

お墓の前で手を合わせる人もいれば、家で写真を見ながら思い出す人もいるでしょう。集まれない日に電話をして、亡くなった人の話をすることもできます。命日に、その人が好きだったものを食卓に添えることもあるかもしれません。

大切に思う気持ちを、どのように日常の中で表すか。そこには、さまざまな方法があってよいのではないでしょうか。

そして未来の供養を考えるとき、今、残しておけることもあると感じます。

例えば、古い写真に写っている人の名前です。知っている人には当たり前でも、その人がいなくなると、誰なのか分からなくなってしまうことがあります。

写真の裏に名前を書く。いつ、どこで撮ったのかを添える。家族の思い出を短い文章にしておく。それだけでも、次の世代が写真を手にしたとき、その人との距離が少し近くなるでしょう。

立派な家族史をつくらなくてもよいと思います。

「この人は、こんなことでよく笑った」
「この料理が好きだった」
「厳しいところもあったが、こういうときは優しかった」

そんな小さな話の方が、人柄を伝えることもあります。良いところだけに整えすぎず、少し不器用だったところも含めて残せたら、その人の姿が浮かんでくる気がします。

写真や言葉をデジタルで整理すれば、離れて暮らす家族とも分かち合いやすくなるでしょう。ただ、誰に見せてよいものなのか、誰が保管するのかも、一緒に考えておきたいですね。

残すことは、量を増やすことだけではありません。後から見る人が分かるようにしておくこと。そのひと手間にも、次の世代への思いやりが表れると思います。

こうして祖先について考えていると、いつか自分も、写真の中の一人になるのだと気づきます。

今は毎日の予定に追われ、明日の仕事や会社の先行きを考えています。しかし、ずっと先の家族にとっては、私も「昔、こういう人がいた」と語られる存在になるのでしょう。

そのとき、何を残せているだろうか。

会社や財産といった形のあるものも、大切です。それとともに、人にどう接していたか、困ったときにどう行動したか、失敗したときにどう向き合ったか。そうした姿も、身近な人の記憶に残っていくのだと思います。

家族には立派なことを言いながら、毎日不機嫌で話を聞かなかった。社員には感謝を求めながら、自分は感謝を伝えなかった。それでは、言葉と記憶が違うものになってしまいます。

だから、自分がどう語られたいかを考えることは、今日の生き方を見直すことにもつながります。

これは、ボウケンの経営にも通じます。

会社には、これまで仕事を支えてくれた人たちの時間が積み重なっています。社員、お客様、協力業者の皆様。それぞれとの関係があって、今の仕事があります。

創業した人だけで会社が続くわけではありません。現場を守る人がいて、電話を受ける人がいて、見えないところで段取りを整える人がいる。次の世代に会社を渡すときには、その積み重ねも伝えていきたいと思います。

家族と会社は同じものではありませんが、今あるものを当然と思わず、支えてくれた人を忘れない。その姿勢は、どちらにも必要なのでしょう。

同時に、受け継ぐ人には、その人の人生があります。私の思いを残すことと、私と同じ生き方を求めることは、分けて考えたいと思います。

昔を知ったうえで、自分たちなりの未来をつくっていく。その姿を見守れることも、次へ託す側の大切な役割ではないでしょうか。

幼い頃に感じた線香の香りと、お経の音色。お爺さんやお婆さんの写真を眺めていた時間。

あの頃は意味が分からなかったことを、今の年齢になって、少しずつ考えています。そして、これから年齢を重ねれば、また違う受け止め方をするのかもしれません。

祖先を思う時間が、今そばにいる人を大切にする時間にもつながってほしいと思います。

会える人には会う。聞ける話は聞く。感謝は、伝えられるうちに伝える。いつか手を合わせるその日だけでなく、今日の暮らしの中にも、できることがあります。

受け取ってきたものに感謝しながら、次の世代へ何を渡すのかを考える。そんな気持ちで、私自身のこれからを歩んでいきたいと思います。

株式会社防除研究所
代表取締役 梅木厚生